京の人
第1回:橋本裕介さん
京の人People in Kyoto
第1回:橋本裕介 さん
国内外の先鋭的な舞台作品を紹介し、8年目を迎えた『KYOTO EXPERIMENT2017』(京都国際舞台芸術祭)が去る10月14日~11月5日まで京都市内で開催されました。 京都で創造的な活躍をされている方々にインタビューする本連載の第1回目を飾るのは、その『KYOTO EXPERIMENT』のプログラムディレクターである橋本裕介さんです。京都との出会いから、芸術との関わり、そして未来…。存分に語って頂きました。(TEXT:Y.ANDO)
プロフィール
舞台芸術プロデューサー。
京都大学在学中の1997年より演劇活動を開始。2003年橋本制作事務所設立。現代演劇、コンテンポラリー・ダンスのカンパニー制作業務や、京都芸術センター事業『演劇計画』など企画・制作を手がける。2010年より『KYOTO EXPERIMENT』を企画、プログラムディレクターを務める。2014年よりロームシアター京都プログラムディレクター。
京都との関わり
京都には大学入学と同時に来ました。生まれは京都ではないので京都人と言ってしまうと“ほんまもん”に怒られると思います。20年左京区に住んでいますが、百万遍の辺りもチェーン店が増えてきた感じがしますね。大学の頃の京大周辺はグローバリゼーションの影響がまだそれほど強くない感じで、興味をもっていた1960年代・アングラ文化などに関しては、その当時の事かリアルタイムの事か記憶が曖昧になってしまうくらい街に様々な匂いが残っていました。今では自分が実際に体験した記憶なのか、映像や写真で見たものなのかよく分からなくなる時も…(笑)。大学に入る前から演劇に関することに携わりたいとは思っていたので、演劇が盛んな東京の早稲田大学などか、そんな60年代カルチャーが残っている京都か迷ったのですが、やはり“匂い”が残っている京都に惹かれたんだと思います。
演劇の制作者として
学生のときは演劇に関する様々なセクションを一通り経験して自分で演出等もしましたが、制作者以外のセクションは「憧れ」でしかないと実感しました。つまり有名な俳優がいたり著名な演出家や作家がいて、それをなぞってみるようにしか自分はやれていないんだと。一通りの経験を経て、「憧れ」ではなく「自分だったらこういう事が出来る」と思えた仕事が、制作者・プロデューサーという仕事でした。
また先程も言いましたが、そもそもなぜアングラという文化に興味を持ったかと言うと、60年代という日本が大きく変化した時代に対する単なるノスタルジックな思いだけでなく、アングラは日本で生まれたオリジナルな文化であるにもかかわらず世界で通用する同時代の表現である事を知ったからです。それらのカルチャーを作り出した人々は自分たちで「モノサシ」を作った。芸術のいいところは、既にある評価軸ではなく自分達の信じる表現で「モノサシ」を創り出せるところ。僕はそこにロマンを感じました。
そういった事に関心を持った一方で、当時(90年代の後半)の演劇の世界では野田秀樹さんなどが牽引した”小劇場ブーム”が下火になってきていて、そこに僕は「拡がり」を感じる事が出来なくて、単に今の状態で表現の質を高めることには限界があるなと。やはり違う分野の事、あるいは違う社会、また海外との風通しをよくしない限り、自分が関心を持つこの演劇という分野で新しい「モノサシ」をもった表現は生まれないだろうと思いました。つまり仕掛けを考えないといけない。変えなければいけないと。そういう意味で企画を考えたりプロデュースすることが、自分にとって演劇という表現に携わることの核心へ迫る一番の近道だと感じたんです。
京都芸術センターという場からフェスティバルへ
僕がそんな演劇の制作者を志す“タイミング”もよかったんだと思います。大学を卒業する頃に『京都芸術センター』(注:①)と京都造形芸術大学に『映像・舞台芸術学科』が出来たことは大きいことでした。『京都芸術センター』が出来たことで、日常的に演劇畑の人やダンスの人、音楽の人や映画の人といった異ジャンルの表現者同士が“出会える”ようになった。やはり顔なじみになるのでコミュニケーションも取れるし「それじゃあ今度こんなことをやってみよう」とか「そっちの稽古を覗きに行ってみようかな」とか新しい表現を生み出す「場」がそこに出来たんです。
フェスティバルを企画するきっかけは幾つかあって、ひとつは『演劇計画』(注②)というプロジェクトで作品をプロデュースしていたんですが、東京の人がほとんど観に来てくれない。やはりメディアの中心はそちらにあるし、観てもらえないと取り上げてももらえない。せっかく作ってるので多くの人に見てもらいたいですからね。また新作やプロジェクトを進めるためにはお金も大事な要素で、そうしたお金を集めるためには助成金や協賛金も必要で、その判断をする官公庁や企業も東京にあることが多くて…。観に来て欲しいけどなかなか来てもらえないジレンマがありました。じゃあどうすれば来てもらえるのか。そんな時に「一度京都に足を運べば何本か観ることが出来たらなぁ」と言われた事があって、そういうことが出来る仕組みはフェスティバルがぴったりかなと考えました。それと、これは『KYOTO EXPERIMENT』を始めてから思い出したことですが、『演劇計画』を始めて数年の頃、ある時、太田省吾さん(注③)に「この企画をどういう風に発展させていったらいいでしょうか」と相談したところ、「フェスティバルがいいんじゃない」かと。「それも実験的なやつを」とアドバイスを頂いた事があったんです。実はそのことはずっと忘れていて、フェスティバルの実施が決まり、タイトルを決めるとなった時に思い出しました。それで「KYOTO EXPERIMENT(京都の実験)」と云うフレーズが降りてきたんです。もしかすると太田さんの言葉が潜在意識のなかにずっとあったのかも知れません。あとは『演劇計画』で作ったある作品(演劇計画2007『It is written there』構成・振付・演出:山下残)でブリュッセルのフェスティバルに招待されたことがあり、そのフェスティバルのあり方が非常に興味深かったんです。それは国際的な演目を取り扱うフェスティバルで、ヨーロッパのものが実際多いんだけれども、ヨーロッパ人は誰も知らないようなアジアやアフリカ、アラブからの作品も数多く紹介されていて、かつ大御所から若手の作品まですべて同じボリュームで紹介されていました。そうすることによってすごくフラットな出会いがそこにある。既に知っている憧れのものを観るだけではなくて「観たことのないものを知る」という事を積極的に仕掛けていく。そこにある「作り手」と「観る側」のコミュニケーションのあり方がうまく機能していて感銘を受けました。
『KYOTO EXPERIMENT』の最初の頃は、若いアーティストの創作の場や国際的な発信の場を作らなければという思いが強かったですね。もちろん今もそれは欠かせない役割ですが、観客とのコミュニケーションを積み重ねてきた中で、今はかなり街への意識の向け方も重要になってきてるんじゃないかと思います。「ちょっとした事に目くじらを立てたり」「窮屈な感じ」のする近年の風潮の中で、こういう「ヘンテコ」なフェスティバルが京都の街にあるということが、そんなギスギスした世界をほぐす役割を担えるかもしれない。そんな存在が京都に少しでもいい影響を与えるかもしれない。そんなことも感じています。
これからと京都への提言
私自身は京都以外でも活動していきたい、特定の場所に紐づかないことにも挑戦してみたいなと思っています。あとこれは京都がいいなと思っているのですが、自分のキャリアの最後には舞台を中心とした芸術の学校を作りたいと考えたりしています。そんな考えを持つようになったのは海外の制作者たちとの出会いも大きくて、彼らやアーティスト自身が学校を作ったりしているのを実際に見聞きしたんですね。結果的にそのような行動が何か状況を動かすのではないかと。行政が設計した制度が先にあり、そこに芸術を入れ込もうと訴えかけるのではなく、まず「やってみせる」こと。つまりやってもないうちに芸術はこういう風に役に立つ、意味があるということを叫び続けても無理があるような気がします。だから自分で学校を作り、真の意味で芸術を大切にする人を世の中に増やしたい。実現すればいいなと今は思っています。
京都に対する提言ですか…。その問いにお答えする前に、このフェスティバルは京都という土地に下駄を履かせてもらっている大前提があるという事を言わなきゃいけないです。参加するアーティストも、他の土地から来てくださる観客も、京都という場所のお陰でこのフェスティバルの魅力を数10%増で感じてくれているはずです。まずその状況に積極的に恩返しをしないといけないと思っています。その上で「風通しのよさ」というものをこの街にもたらすことが出来たらなと思っています。コンパクトな街であり、伝統から現代まで様々なものに出会えるチャンスに溢れた街。物理的には準備が整った街であると思いますので、後はこのフェスティバルのような催しで、「未だ見ぬモノ」に対する心理的なハードルを下げ「風通しを良くすること」に少しでも貢献できればと思っています。
注釈
注①京都芸術センター
京都市、芸術家その他芸術に関する活動を行なう者が連携し、京都市における芸術の総合的な振興を目指して元明倫小学校の跡地に2000年4月開設。多様な芸術活動を支援し、芸術に関する情報を幅広く発信、市民と芸術家の交流を図る事を目的とし、様々な芸術の事業、制作や練習の場の提供、アーティスト・イン・レジデンスプログラムでの国内外の芸術家の支援を行っている。
注②『演劇計画』
「演出家」を発掘し育成することに焦点をあて、2004年京都芸術センターで始動した舞台芸術作品を生み出す長期的視野に立ったプロジェクト(~2009年)。2013年からは「戯曲」に注目したプログラム「演劇計画Ⅱ」が始まった。
注③太田省吾(1939~2007)
劇作家、演出家。「転形劇場」を主宰。沈黙劇というジャンルを確立、代表作に「水の駅」「地の駅」「風の駅」三部作などがある。「小町風伝」で第22回岸田國士戯曲賞受賞。近畿大学や京都造形芸術大学で後進の指導にもあたる。